1986(昭和61)年の初夏。大学4年になった私は、等々力競技場(現在川崎フロンターレのホームグラウンド)近くにあったコンビニエンスストアで、週5日バイトをしていた。内2日は生活費として月10万円稼ぐために夜勤を入れていたのだが、じつは、夜10時になると、きまって“ある現象”が起きていた。
この時間帯、私は大抵レジに入っていたが、どういうわけか、この10時前後にものすごくお客さんが集中する。そうすると、本当に顔が上げられないくらい忙しく、レジ打ちに没頭するわけなのだが……。
ふと気がつくと、なんだか目の前が暗い。
そう。彼らがやってきたのだ。
“彼ら”とは、当時近くにあった日本ハムファイターズの2軍の寮『勇翔寮』からやってくる、入団1年目のルーキーたちのことだ。今でも名前も顔も昨日のことのように覚えている。西崎幸広、水沢正浩、大内実、松浦宏明、そして田中幸雄。身長167cmの私にとって、ゆうに180以上ある野球選手たちは、まさしく壁のような存在。彼らがレジ前に立つと、冗談抜きで蛍光灯の明かりが遮られ、冗談抜きで目の前が暗くなったものである。
先輩からのオーダーも受けてほぼ毎日のように彼らが来るものだから、いつの間にか普通に会話するようになった。特に、私は後に“コユキ”の愛称でファンに愛された田中幸雄氏とよく話をしていた。何を話したかまでは覚えていないが ^_^;
ただ、彼は、当時から本当に性格が良かった。練習も熱心に打ち込んでいるであろうことが、お店に来ている時の様子からすぐに察しがついた。逆に、誰とは言わないが、女子店員に色目をつかっている選手は、やはり早々と消えていった。
そんな田中選手と最後に言葉をかわしたのが、翌1987年3月末。私は江戸川区に本社のある会社に就職がきまっていたのだが、住まいは住み慣れた武蔵小杉から通うつもりでいた。アパートの引っ越し手続きを済ませ、新丸子方面に向かっていると、ふっと駅前で彼が現れたのである。
短い会話ではあったが、「よかったら遊びにこない?」「うん。いいですよ」といった会話を交わした記憶がある。そのとき、連絡先でも伝えておけばよかったと、今更ながら後悔している。当時はまだ、携帯などなかった時代である。
4月に入り、私はそここから2時間以上かかる場所に配属となり、泣く泣く武蔵小杉から離れることとなってしまう。田中氏との直接的な交流は、それっきり途絶えてしまっている。ただし、この交流をきっかけに、私は今日まで一貫してファイターズ推しで通している(その前は篠塚ファンだったので巨人をなんとなく応援していた)。 北海道であろうと樺太であろうと、どこにいっても命ある限り日本ハムを応援し続けるつもりだ。
今は解説者として活躍されている田中氏。将来は一軍の監督を嘱望されながら、突然二軍監督を退きチームから離れた時は、健康問題も懸念され、まるで身内のように心配していた。ここ2,3年で解説として元気な姿が見られるようになり、ほっと胸をなでおろしている。また昔のように楽しく談笑できる日が、きっと来る気がする。
田中くん、残念ながら、当時の店員仲間だった永井や佐藤シゲとは、交流が途絶えてしまったよ。セブンイレブンも、今はあの場所にはない。でも、みんな君たちのことを今でも覚えているはずだよ。
( P. S. )
コンビニに来ていた彼らの買い物には、正直非常に泣かされた記憶があります。
昔のレジでは、種類が違っても値段が100円であれば100×4本で打てたのです。ところが、当時ちょうどPOSレジを導入した直後だったので、同じ値段でも種類が違うとすべてバーコードをスキャンしないといけなかったわけです(今は当たり前ですが)。
彼らは、缶ジュース20本あったらほぼ全種違うものを購入していきます。先輩方のオーダー(好み)が全部バラバラだから(^_^;)
よって、夜10時前後のレジは、大渋滞になるというのが日常化していました。
おかげで、パニックになっても慌てないメンタルが磨かれました(^^♪